同じ方向に向かいつつ、その目的は乗り合わせた人間みな違う。
なじみの顔に会釈をするのか、一言交わすのか。
家人よりもしかしたら近い距離で赤の他人がおなじ空気で呼吸をし、思考している。
不通ということの不自然さ、、
野菜にたかる害虫や蛙や鳥達、小さな生物たちでさえも、人影がよれば身を潜めたり逃げ出したりする。
距離は様々だが人間ほど意図的な無神経さはもちあわせていない。
ステップの手すりにCDショップのCDたち、書店の雑誌に公共のトイレ。
目に見えぬ雑菌を恐れつつ自ら運び広げる。体中に埃をまとい、病原菌を運ぶ。
潔癖の実質的な不可能に気づく人は少ない。
しゃがみこみ土に触れる。
手には泥がつくが、土の乾燥具合や質によって汚れ方がまったく違う。
野菜を摘み埃を落とすとそのまま食べる。「野菜」という生物が自衛する範囲において表皮は守られ、そこに付着する汚染されたものは殆どない。
実際は人の手に触れ、収穫後の時間が経ち、流通する、店頭に並ぶ、、
自宅の怪しい衛生状況の冷蔵庫に入れられる。。
にも関わらず、土は汚いもの、虫は気持ちが悪いもの。
おなかを壊すと言っては過剰に防御し、抵抗力をなくす。
手に染み付いた植物のアクや土のシミ、虫の存在を排泄物同等の汚れと捕らえる感性は知性の欠落、感性の崩壊。
それは想像力。
土に棲む無数の生物群、空気中を飛び交う見えない気体、木々の間に風が抜け人の間にも無限のいのちの置き換えを繰り返す。そのダイナミズム。
人間が生きるという事がその「命の幅」に由るという事を忘れてしまうという事が、どれほど感性を劣化(退化)させるのか。
表現という事、
対話という事、
共有という事、、
様々な方法を取って幅を広げてゆく。
世界と人間の接点はすなわち自然と人間の接点、
そう、それは脳細胞のシナプスをつなぐのと同じ事。
何回も繰り返して、判断力を鍛えるのは生命力を強めて防御力を高めること。
感性というのは人が生物である以上、生きるてゆく為のもととなるものであり、そこに異常をきたすということはまさに自然を失くすという事。
自然の理解から離れていくということは、いのちの幅を狭め、所詮敵わぬ自然の摂理に打ち負かされる事。
死ぬならば、包まれるように死にたい。
自然にひきとられたい。
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