2009年09月22日

いのちの幅

たとえば通勤電車、バス、、
同じ方向に向かいつつ、その目的は乗り合わせた人間みな違う。
なじみの顔に会釈をするのか、一言交わすのか。

家人よりもしかしたら近い距離で赤の他人がおなじ空気で呼吸をし、思考している。

不通ということの不自然さ、、



野菜にたかる害虫や蛙や鳥達、小さな生物たちでさえも、人影がよれば身を潜めたり逃げ出したりする。
距離は様々だが人間ほど意図的な無神経さはもちあわせていない。


ステップの手すりにCDショップのCDたち、書店の雑誌に公共のトイレ。
目に見えぬ雑菌を恐れつつ自ら運び広げる。体中に埃をまとい、病原菌を運ぶ。
潔癖の実質的な不可能に気づく人は少ない。

しゃがみこみ土に触れる。
手には泥がつくが、土の乾燥具合や質によって汚れ方がまったく違う。
野菜を摘み埃を落とすとそのまま食べる。「野菜」という生物が自衛する範囲において表皮は守られ、そこに付着する汚染されたものは殆どない。
実際は人の手に触れ、収穫後の時間が経ち、流通する、店頭に並ぶ、、
自宅の怪しい衛生状況の冷蔵庫に入れられる。。

にも関わらず、土は汚いもの、虫は気持ちが悪いもの。
おなかを壊すと言っては過剰に防御し、抵抗力をなくす。
手に染み付いた植物のアクや土のシミ、虫の存在を排泄物同等の汚れと捕らえる感性は知性の欠落、感性の崩壊。



それは想像力。
土に棲む無数の生物群、空気中を飛び交う見えない気体、木々の間に風が抜け人の間にも無限のいのちの置き換えを繰り返す。そのダイナミズム。
人間が生きるという事がその「命の幅」に由るという事を忘れてしまうという事が、どれほど感性を劣化(退化)させるのか。



表現という事、

対話という事、

共有という事、、



様々な方法を取って幅を広げてゆく。
世界と人間の接点はすなわち自然と人間の接点、
そう、それは脳細胞のシナプスをつなぐのと同じ事。
何回も繰り返して、判断力を鍛えるのは生命力を強めて防御力を高めること。

感性というのは人が生物である以上、生きるてゆく為のもととなるものであり、そこに異常をきたすということはまさに自然を失くすという事。
自然の理解から離れていくということは、いのちの幅を狭め、所詮敵わぬ自然の摂理に打ち負かされる事。

死ぬならば、包まれるように死にたい。
自然にひきとられたい。
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2009年01月05日

never,possivility.

「絶対にとどかない」と自分を押しとどめる。
いつもは「何でも思い通り」と過剰な自信で事を推し進めたがる
自分へのより戻し、若しくは引き金を引くためのバネなのか??



そしてその「あきらめ」の中、まるで自虐的とさえいえるほど強く思い描く程に、やがてそれらはファンタジーに成って行き、
あるときふと出会う「現実」の姿に幻滅する。どうでもよくなってしまう。

その様子さえまた自虐的に夢想する。。。



それを繰り返し繰り返し、、とうとう自分にとってとるに足らない事柄となったとき、ふと気がつくと「それ」はすでに自分の手の中にある。


これは現在の自分に与えられる限界を超えた欲求に対面したとき
精神が崩壊しないよう、
自分の美学が破綻しないよう、
それでいて、結果的に「思い通り」にしてしまうであろう自分への、
強欲の塊とも言える自分の生き方への懺悔の形なのだろうか。。



教会で罪を告白する。
胸にとどめていては押しつぶされるから、
いろいろと精神のつじつまを合わせるために、バランスをとるために。

告白の後、彼は懺悔をもって、それを境に浄化されようと行動するだろう。
しかし、仏教で言うような煩悩滅却のように欲望を消し去るわけではない。


それは現世に生き、世に生きる無限とも言える他人の欲望の渦の中に生きている限り不可能のように思える。



自分を救う方法。

それは如何に他人を苦しませず、自分の欲望を実現する社会性を身につけてゆくかという「行動」の中にある。





神の首筋に頬擦りをし、交わる至福のときはまた、
幼少の頃の生暖かいが鮮烈な愛のイメージに程近く、
適度な幻滅を含みながらも、現実への着地点を探っている。
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2007年12月21日

バランス

あれは小学生の頃、けっして幸福感に満ちた時代ではなかった。
父親は自営業が多忙で、もしかまってもらえても「大人の事情」の横についてゆくだけだった。大人を見上げながら、早くこの不格好な子供時代を脱して大人になってしまいたかった。

ちょっとうつむき加減に現実の外側の世界を常に感じながら、
浮き世離れした、内向的な少年だったと思う。
しかし、人並みに子供社会にも溶け込み、ケンカや仲間はずれもなかった。


道を歩いていると、ふと、「あのマンホールの右側を歩いた自分と、左側を歩いた自分の未来が変わる」とか「下校の道筋、あそこを通らないと正しい『今』にたどりつけない」とか。
決してSFの設定や哲学に興味があるような年齢ではなかったが、
平行世界や、可能性の分岐点を観ていた。

必死にバランスをとろうとしていた。

けっして極端に不幸ではなかったし、幸福でもなかったけれど、
なにかが決定的に『終って』いる。
そんな、精神の荒野を想像しながら、

そこに咲く花をまっていた。


そしてまた必死でバランスをとりつづけている。
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2006年12月15日

リビドー

愛しているとき、
自分はとても弱く、相手にいいようにあしらわれているように感じる。
必死ですがりつき、喜んでもらおうとあがきおぼれ続ける。

相手はその僕の姿を、見えない心の底辺で優しくほほえみながら見守り、包み込む。

それは、そこまであけすけに受け止めてくれているという事実でもあり、
僕はさらにおぼれてゆく。。

その感じ。


僕は死ぬ。
僕は愛する。
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2006年10月30日

いやしいビジネス

僕のように絵画(やイラスト)を日々製作しWEB上に公開していると、それをビジネスのソースとして版権をかすめ取り(酷い場合盗作し)利用したがる人間もしくは会社がある。


「作品の発表をしませんか?私達は顧客をもっています」といううたい文句でギャラリーを語る営利目的の会社が散在する。その実アート消費の増加に対応し「商品」をラインナップするにあたり、コストをかけずに「絵画/イラスト」の作品を広く集めTシャツやポストカード、額装した印刷まで利用する。

いわば「著作権」「知的財産権」を『発表する場を提供しますよ』という作家の弱味(大体の個人作家は発表チャンネルに飢えている)に付け込み限り無く『フリー』で会社の都合がいいように『利用』する。
言い方を変えると、『作家を騙して商品価値を吸い上げる』という事。

これは作家側が同意(出展条件を読み契約した場合)すればは合法であるし、会社がそれで利益をあげても法的にはせめにくい。しかも一介の無名作家にとって作品の「著作的、・知的財産としての価値」はパーソナルなものでしか無いので、消費・換金される事に対して何も感じないのであれば、それは作家の自由である。

ただし僕は我慢ならない。

自分の精神活動の軌跡、生活の一部を刻んだ『徴』を、その価値を、自分の知らぬ場所、知らぬ方法で、知らぬ他の著作物と同列に『消費』されるのは抵抗がある。

作品や思想を知ってもらえるのならばいいが、切り刻まれ「名も無い花」として消費されてしまうのは心苦しい。それならばWEB上からの『盗用』を防ぐ事はあえてしていないが(明らかな違法である為)、商業利用をされる場合は慎重になろうと。

作品の価値は1点ものという所にあり、実物の質感にある。
WEB上の写真の色、出力した場合の色や風合い、、それらを始めから意識した『イラスト作品』『マンガ作品』などの出版物をはじめから意識したものでは無いのだ。
このあたりを混同するクリエーターは多い。
どちらでもいいというクリエーターも。



他のサービス業でも当然の仕組みだが、『いかに利益を出すか?』が商いの基本であり、アートの世界でも著名な村上隆氏などはそれについての本を出しているくらいだ。生き残って流行っている美術館はそれを上手くやっている。
『アートをどうビジネスするか?』生産性がなければ続かない。それは至極まっとうであり、社会に食い込む程に重要な問題になる。

西洋史の歴史は職人の歴史でもあり、パトロンや宗教需要を基底に作家や作品が繋がって発展してきた。その中で作家たちは自分の人生や思想を謳歌し、作品に刻み込む事に集中し、いわば「社会から浮いた」存在でもその価値を広く社会に打ち出す基盤があった。

一方日本ではアート、デザイン、アパレルの世界でも歴史が浅い中でコマーシャリズムに頼った表層の消費が主となってきた。
作家の意識も長い画壇の苦悩のうちに変質したものが広がってしまい、混迷しているように思える。
「ジャパニメーション」「コミックス(マンガ文化)」などの華やかさの影に『著作への意識=パーソナルである事の価値』を見失い、個別の精神性が高まらないように思える。

良質のコピーはいらない。

無骨でもシンプルで血が通うものに価値を感じる。
それは大量に消費されるコミックスやイメージ(出版物)においても同じだと思う。器用な日本人に「オレ様」は似合わないのかもしれない。
コミケなどのコピー文化から良質のクリエイションが産まれているというのはあながち間違いではないけれど、あれだけの『商業規模』の中では消費され掃きすてられるものの方が圧倒的に多いのだ。
それでも良い。オリジナリティの解釈の違いだ。
そうかもしれない。
「みんな!オラにちょっとだけ元気をわけてくれ!!」と言って無理からにエネルギーを集めてしまう一人勝ちの悟空にみんななりたいのかもしれない。

僕は吸い取られたり、掃き捨てられるのはゴメンだ。
「みんな」や「社会需要」は全く意識していない。
あしからず。
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2006年10月11日

『XX』female=女性

『double X』

というタブローを高校生の美術科の卒業製作で描いた。対の『XY』。
『XX』とは人間の染色体の23番目『性染色体』の形。

生物学的に殆ど変わらない筈の「男」「女」のこの決定的なまでの違いはなんなのか??その違いは常にイマジネーションの泉となる。

わざわざ、面倒で気取ったタイトルで「女」を描きたかっただけではないと思うけど、ダヴィンチやラフアエロが描いたような神とも俗ともつかない生き物「女」は「男」の不完全さを補うもの、それだけで「自然」を体現するもの、「いのち」そのものであり、僕にとっては崇拝の対象である。

以来、作品のモチーフは「女」でありつづけ「美」なるものを写し取る事から抜けだせない。醜さも、愚かさも、知りながら、崇拝するものとしてはそれらを知る事で心に『黒』というか『闇』を生じさせ、自分も共に落ちてゆくようで怖くなって必死でカンバスにぶら下がる。さらに崇拝する。
得てして、その『闇』が心地いい為に抜けられないのだが。

まだ何も産まれていない真の闇。

しかし、すべての可能性がそこにある。
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2006年10月09日

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posted by 武藤 一樹 at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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2006年10月03日

八百万の神

僕は特定の信仰はもたない。カミサマ、ホトケサマ、それらを祭る為の道具や方法にあまり興味が無い。だからといってそれらの存在を否定するものではなく、むしろ確実に「在る」と思う。
それらは各地、各時代に人が特定の形を与えたものだろうが、実際はそれを超えた集合無意識のような無形で巨大なネットワークが存在すると思う。

『八百万の神(やおろずのかみ)』

「記紀(古事記/日本書記)」をもし数ページでも読めば余りの登場神の多さに早速ついてゆけない。体系だてて分析するのは専門家に任せるとしても、読んでゆくに従って関係の複雑さ、名前の複雑さ、グロテスクな描写、、少数民族の地域信仰や、海外渡来の神話、日本という国の政治の成り立ちと始まりをごったまぜに取り込みながら、『ことば』によって『畏敬の念』を具体化し統一的に広めるためのシステムである事がわかる。

しかし、実際それらのベースのなった信仰はアニミズムに通じる「自然信仰」であり、あらゆるところに「神」を見い出すという各宗教のルーツに近づいてゆく。

美術製作はひたすら耽美的な表現欲か感性の意味付けを哲学的に行う現代美術か職人的作業かのいずれかのようでもあるが、その根底には「見えないもの」を扱うという共通項がある。

僕にとってはこの「見えないもの」は「神」と等しい存在でもある。
感じるのだ。人間を描くのは、身近でありながら全く未知の領域があり、不完全だから。それ故の美しさをそなえた『神性』となる。
そしてそれらはあらゆる所に遍在している。
なんとかそれを捕まえようとカンバスに罠を仕掛ける。

自然は美しい。だが、その均整がとれ過ぎた姿は時に恐ろしい。
posted by 武藤 一樹 at 19:35| Comment(0) | TrackBack(0) | ドローイング/メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月02日

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posted by 武藤 一樹 at 13:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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