いつもは「何でも思い通り」と過剰な自信で事を推し進めたがる
自分へのより戻し、若しくは引き金を引くためのバネなのか??
そしてその「あきらめ」の中、まるで自虐的とさえいえるほど強く思い描く程に、やがてそれらはファンタジーに成って行き、
あるときふと出会う「現実」の姿に幻滅する。どうでもよくなってしまう。
その様子さえまた自虐的に夢想する。。。
それを繰り返し繰り返し、、とうとう自分にとってとるに足らない事柄となったとき、ふと気がつくと「それ」はすでに自分の手の中にある。
これは現在の自分に与えられる限界を超えた欲求に対面したとき
精神が崩壊しないよう、
自分の美学が破綻しないよう、
それでいて、結果的に「思い通り」にしてしまうであろう自分への、
強欲の塊とも言える自分の生き方への懺悔の形なのだろうか。。
教会で罪を告白する。
胸にとどめていては押しつぶされるから、
いろいろと精神のつじつまを合わせるために、バランスをとるために。
告白の後、彼は懺悔をもって、それを境に浄化されようと行動するだろう。
しかし、仏教で言うような煩悩滅却のように欲望を消し去るわけではない。
それは現世に生き、世に生きる無限とも言える他人の欲望の渦の中に生きている限り不可能のように思える。
自分を救う方法。
それは如何に他人を苦しませず、自分の欲望を実現する社会性を身につけてゆくかという「行動」の中にある。
神の首筋に頬擦りをし、交わる至福のときはまた、
幼少の頃の生暖かいが鮮烈な愛のイメージに程近く、
適度な幻滅を含みながらも、現実への着地点を探っている。
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